敗走

備忘録

『福田村事件』 極限状態で正論を言うこと

9月1日の公開日に舞台挨拶のある上映回で観ました。肉眼で見た田中麗奈さん、マジモンのマブだったぜ。上映前に舞台挨拶があったので、皆さん少し喋りづらそうにされていた。水道橋博士が、小池百合子が真ん中の席に座って観るまで公開を止めない!と言っていて、わたしもそうだったが劇場内で笑いが起きていて、でもそれって笑い事じゃあないよねって後ろめたい気持ちになった。折しも松野官房長官関東大震災後の朝鮮人虐殺について記録がないと述べた後のことだった。否定すれば否定するほど後ろ暗いところがあるからでしょ?と思われるだけなんじゃないか。韓国併合後に朝鮮人を“いじめた”ので、恨まれている自覚があったからこそ復讐されると疑心暗鬼になった、というのも映画の中で朝鮮人虐殺が起こった理由に挙げられており、かなりありえる話だと思う。

終盤で永山瑛太らが演じる行商人が……作中で穢多であることが描かれている。彼らは虐げられる人々としてだけではなく、癩者に効きもしない偽薬を売りつける一面もある。こういう描写があると、に、に、に、人間だァ〜〜!と思ってしまい我ながらガバガバだなと思うがでも人間ってそんなもんだよな……福田村の人々に朝鮮人ではないか?と疑われる場面がある。ヒートアップした自警団に対し、井浦新田中麗奈演じる朝鮮帰りの夫婦、コムアイ東出昌大演じるカップル……コムアイは結果として戦争未亡人となった豆腐売りの女で東出昌大はその間男である……が彼らは日本人であって朝鮮人ではない、落ち着かれよと弁護するのだが、われわれ21世紀の基本的人権のある国に住む人間(これは皮肉です)としてはかなりグロテスクな庇い方で、ただそれが効果的であるからそのようにするのはわかるんスよ。倫理的ではないとわかっていながらも効率を考えて非倫理的な理屈で説得を試みたことのない者だけが石を投げよと言われて投石できる人間がどれだけいることだろうか。幸いなるかな投石できる人間は!!!

そういうクソみたいな、だけれどもしかたがないよなあって状況で瑛太は叫ぶのである、朝鮮人だったら殺して良いのか?と。現代人としてよう言った!と喝采したい気持ちとなぜ破滅を選ぶのか、このまま流されれば違う未来もあったのに……と思う気持ちで引き裂かれるような心地だった。

事実として行商人らは殺された。フィクションの世界でどんな振る舞いをしてもそれは覆せない事実として鎮座している。このようなやり取りが本当にあったかはわからない。福田村での虐殺事件については残された文書が、あまりにも少なすぎる。ただ、観終わって三週間経っても極限状態で正論を、それが致命的であったとして、自分は言えるだろうかと繰り返し繰り返し考えてしまう。

 

福音として受け止める部分もこの映画にはある。わたしはわたしの人生の大部分でマジョリティではないと感じることが多く(マジョリティ側である属性も自分にはあるが、そのように振る舞っているだけのものもある)、集団に対して外側から眺める心地でいることがまあよくある。永山瑛太ら行商人を庇ったのは井浦新田中麗奈コムアイ東出昌大の村の価値観から離れた、異質な人間として描かれていて、もちろんこれは森達也が用意したフィクションの部分であることはわかっちゃいるが、『福田村事件』を観たあとからわたしの在り方も、マイノリティであるからして……ただわたしがひねくれてるからだけかもしれんが、ある集団の方向性に良かれ悪しかれ一歩引いた場所で、それって本当にそうなの?と思うような、マジョリティに飲み込まれづらい人間であることはなんかしらの意義があるのかもねって、そう思った。